解説 厚田昌範
まず、二つの結論から記しておこう。
第一に、この小説は文句なく面白い。そこで、もし本文を読む前に、解説のページを開いた読者がおられたならば、忠告しておく。休日の前夜でないかぎり、夜十時を過ぎていたら、繙くことなく、明日の楽しみにとっておくべきである。いったん読みだしたらハートを掴まれ、最後まで読み通してしまう。 そして睡眠不足。後は述べるまでもないだろう。
第二点は、この小説の学問的価値である。経済界・財界史における記録的作品といっても、断じて、過言ではあるまい。
野村証券調査部、野村総合研究所、そして中堅企業の経営者、やがて評論家へと、私の経済界生活も三十年を越えた。いたずらに“馬齢”を重ねたといえば、それまでであるが、歳月の経過は恐ろしい。やはり、それなりに企業の表裏を味わってきたし、多くの現象と変遷を眺めてきた。この経験を通してそう断言できるのである。
昭和五十七年十月一日から、改正商法が施行された。
法改正の最大の目的の一つが、従来の総会屋主導型の株主総会を排除し、一般株主の積極的参加を実現して株主総会が健全性、正常性を回復することにあることは、すでに周知のところであろう。この結果、本書におけるような「総会屋」が生の姿のままで存在することはできなくなった。会社荒らし、特殊株主などとも呼ばれる総会屋に対して、会社が利益を与えると、四九七条によって、会社側の取締役・監査役または職務代行者などのほか、支配人・使用人、そして総会屋ともに、「六ヶ月以下の懲役または三十万円以下の罰則」に処せられることになったからである。
だが、後に述べる理由によって、やがては総会屋的機能を果す人が、形を変えて出現するかもしれない。丁度、昭和二十三年四月から「売春防止法」が実施され、いわゆる「赤線」は姿を消したが、トルコ風呂――等々、売春がいまだにおこなわれているように――。
ニーズがあるからだ。それでも「赤線」は、歴史的なものになってしまった。
同じように、仮りに今後、総会屋的機能を果す者がでてきても、もはや、かつての「総会屋」とは同じではない。その歴史的存在になってしまった総会屋の実体、ヤリ口、ノウハウなどを、これほど正確に記述しえたものは、私の記憶にあるかぎり、三好徹氏の『小説総会屋』に右にでるものはないだろう。その意味で、後世の経済史・企業史を研究する者にとって、稀有の文献になりうるものであることを、私は、そして私の経験は確言することができる。
話が堅苦しくなった。しかし、こんな歴史的価値を意識しなくても、本書は興味深く読者に迎え入れられるだろう。
読んでいるうちに、知らず知らず、興奮を覚え、自分自身が、文中に融けこんでいく。一挙に読了してしまう。そして、爽快感にひたり、心地良い充足感に浸っている自分に気づく。どこに、その原因があるのだろうか。
三好氏の昭和三十四年のデビュー作『遠い声』が、文学界新人賞の次席になったことは、すでに周知のところ。筆力には定評があるが、さらに年々、磨きがかかっている。これに加え、文壇に登場するまでの新聞記者魂が、丹念な取材欲を駆りたて、徹底した調査・分析力、物事の本質を見抜く洞察力、さらに秀れた人生観を加えて、経済・企業のカラクリのすべてを暴いていく。この特長が本書に集約されている。
「総会屋」という言葉は、誰でも知っているだろう。だが、その実体を把握している人はすくない。
いや、本来、株式会社にとって最大の決議機関であるべき「株主総会」の表舞台についての知識は、その株式会社に勤めているサラリーマンにも、ブラック・ボックスなのである。本書の中でも、三好氏は、大手商社の一つである三星商社の総務部次長の兼平をして、
「わが社には、五千人もの社員がいるがね、総務部がどれほど総会のために苦心しているのか、わかっているやつは百人とはいないだろう。情けない話さ」
と言わしている。
その百人のなかでも、直接の責任者である担当役員の野瀬、総務部長の沼沢、それに兼平、また、本書の舞台回しを勤める戸田清介などのプロが、総会屋である里原、鈴村、大松、森野、さらにはトラブルコンサルタントと称されている矢吹によって、きりきり舞いされてしまう。胃が痛む。ついには胃かいようになって入院手術する者まで出てくる。
“木”しか見ていないサラリーマンに“森”という企業を、三好氏は教えてくれていると表現してもいいだろう。目からウロコのとれた気がする読者もすくなくあるまい。
また「ホメカツ」、「ワン株屋」などのテクニックに始まり、総会屋各人各種の多様で、しかも複雑怪奇な戦術戦略に目を見張る方も多いと思う。総会屋の実体を鮮やかに浮き彫りにしてやまない。その表現力と相俟って、歴史的記録作品と位置づけるゆえんである。
改正商法以前、なぜ、六~七千人もの総会屋が存在し、広告賛助金などの名目分も含め、企業から実質一兆円を越す利益供与をえていたといわれた理由もわかるだろう。
本書は壮大なドラマである。だが、それにとどまらない。さすがに昭和四十二年に『風塵地帯』で日本推理作家協会賞を受けた三好氏である。最後に、見事なドンデン返しをしめす。本文を読まれるまえに、まず解説を……という読者に興味を残すため、敢て、筋書きや総会屋の手口にふれなかった理由である。
だが、これだけは言っておかなければなるまい。
「文は人なり」という。三好氏は正義の士である。だから悪を憎む。かといって、浪花節や講談とは違う。善玉が必ず報われるとは限らないのが、経済社会の実体である。これを舞台にしているため、悪が栄え、正義が滅びるストーリーが三好氏の作品に多いが、滅びゆく者も潔い。本書もこの流れにそっており、それが、インテリである読者の知性と自負心を満足させてくれるだろう。
改正商法によって、総会屋の存在は許されなくなった。この結果、どうなったか――。
それまでの株主総会について、本書は、総会屋対策のベテランを自認していた兼平総務部次長が、営業から総務に移ってきたばかりの戸田に教える形で、次のように記述している。
「こいつは、最近の調査だが、上場会社六百八十三社を調べた結果、十五分以下の総会は百六十一社、三十分以下が四百三十七社。つまり合計八十八パーセントが、三十分以内の総会で終わっている」
「へえェ……」
「次は総会における株主の発言だ。一人も発言しなかったもの百二十三社、発言者一人のもの百二十社、二人のもの百六十二社、三人のもの百五十四社。つまり八十二パーセントの会社の総会は、トントン拍子に運んでいるんだ。議案に反対意見の出た会社は、たったの五十九社。全体としては、七パーセントでしかないんだ」
「ほう」
これが、どんなに変化したか。一般的にも、一時間から二時間かかるようになったというが、極端な例を挙げておく。五十八年一月の「いすゞ自動車」の株主総会である。
同社が輸出した自動車の中に、武器輸出禁止の国是に触れるものがあったのではないか、が大きな論争になり、なんと総会の時間は蜿蜒六時間にわたる超ロングラン。それだけなら、まだ、いい。長びいた総会の責任を問われ、数日後、総務部長が左遷されてしまったと聞く。
情報は、あっというまに各社に伝わる。
この解説を書いている五十八年三月まで、私は、かず多くの大会社のエリート総務部長から、
「今度の総会が行われる六月までの寿命ですよ……」と、憮然としてクビを撫でながらの愚痴を聞いた。
そう、商法は改正されたが、会社の実体は変っていないのである。問題を抱えていない会社はない。また、「毛を吹いて疵を求める」手合もいるだろう。
絶好の例を三好氏は、本書のなかで挙げている。
東西銀行では、決算のあと、役員や部長たちの親睦ゴルフコンペをおこなうことを恒例としていた。日曜日、しかもプレー代は各自の負担である。ここまでは問題ない。ただ総務部部員が世話係をし、代休を貰っていた。よくあるケースといえるだろう。しかし、総会屋の里原はこれを見逃さなかった。
「……いいですか。代休というものは、業務に関して認められるべきものでしょう。しかるに、コンペはプライベートなものだ、とあんたはいった。コンペが銀行の公的な行事ならそれは構わん。しかし、そうではない。つまり、おたくの役員諸公は、自分たちの楽しみのために、行員の休日をとりあげて、代休をあたえた。公的業務のために月給を払っている人間を、全役員が私的レジャーに使ったわけだ。いいかえればそれだけ銀行に損害をあたえたことになる。これは銀行の信用にかかわる話だ」
と、総務部長に凄みをきかせたのである。その後の展開を述べてしまうことは、読者の興味を削ぐおそれがあるので避けるが、今後は、こんなことでも総会が六時間に及ぶ原因になりかねない。
改正商法以前でも、商法四九四条で、「不正の請託」と認定されると、一年以下の懲役か五万円以下の罰金が課せられていた。それでも総会屋が存在していたのである。「法網をくぐる人」がおり、他方、総会を極力無難に切り抜けたいニーズが企業サイドにあるかぎり、株主総会請負業的な存在が発生する可能性が絶無とはいえないだろう。
この意味からみて、本書を「今後は起こりえないお話」と、単純にみてはいけない。小説のなかでも三好氏は、「総会というのは、あくまでも知恵の戦だ」と大松に語らせている。含蓄があり、示唆に富む言葉だ。面白さのうちにも、サラリーマンにとって数多くの教訓を含んでいるのである。永久に愛読される名作の一つといえるだろう。
なお、三好氏の著書『総会屋志願』(集英社文庫)を併読されると、より一層、興味が深まるであろうことを付け加えておく。