あとがき
僕の小学生時代の夏休みは、暑い陽差しに首をうなだれた黄色い大きなひまわりの、原色の激しいイメージを抜きに語れない。
毎年、小さな庭にひまわりが自生する。種を蒔いたわけではないのに、いつも同じ場所に五本、六本、と生えてくる。近所の悪ガキの家の庭にも、あちこちの家の庭の隅にも、同じようにひまわりが生えたものだ。
五月、六月と、ひまわりの黄緑色の茎と葉は、すくすくと育っていく。青い空へ向かって伸びていく。下の方の葉っぱを、一枚、一枚、ていねいに引きちぎると茎はさらに伸びる。どこまで伸びるか競争するのである。
七月、やがて自分の背丈を越えた。こんどはできるだけ大きな花をつけるように剪定するのだ。放っておけば、ひまわりは五つも六つも花をつけてしまう。そうならないように脇から出てくる芽をつむのである。
そうやって気まぐれに育てて八月―。大きな花が真夏の太陽を燦々と浴びるころ、僕は縁側に老人のようにけだるい軀を横たえ、夏が過ぎるのを、じっと待った。こうしてずっと退屈な午後を生きねばならないという漠然とした不安を、ひまわりは生命力を誇示しながら教えてくれたのだった・・・・・・。
僕には、僕だけでなく、似たような午後の一刻を記憶している者であれば、三島由紀夫の日常性への呪詛を否定することはむずかしい。だが、やはり彼はどこか違っているのだ。天才であること、それだけでなく、どこかが違っている。
『仮面の告白』に、祭りの神輿が動きながら近づいて来る場面が描かれている。「そろいの浴衣もあらかた肌をさらしている若衆たちが、神輿自身が酔いしれているような動きで、練に練った。かれらの足はもつれ、かれらの目は地上のものを見ているとも思われなかった」のである。
こうした憧景は、三島だけのものではない。「神輿の担ぎ手たちの、世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情」から遠ざけられているのは、三島だけではないのである。
読書する者たちにとっては、つねに〈意識〉が自己を客体化させてしまう。打ち消しても打ち消しても、醒めた認識者を追い払うことはできない。それをふつうのことと三島は考えなかった。僕たちは、しようがないじゃないかといつも間にか納得してしまうが、三島はそれでは生きていけなかったようである。意識化の作用が強すぎて、ある程度ふつうに振る舞うということがなかなかできない。ある程度、という調節ができない。全部が演技になってしまう。ついには演技の側でしか生きていけなくなってしまった、というところだろう。そのジレンマをもまた彼は知っていた。認識の無間地獄のような世界である。
本文で三島の生い立ちを、できるかぎり新しい事実を示しながら描いたが、醒めるということをいっぱいに強いられた少年を想像してもらいたい。カメラのシャッターを切るように、被写体を冷徹に映し出す装置になってしまったとしたら・・・・・・。
だから『花ざかりの森』出版の経緯や、敗戦後のやや露骨とも思われる売り込み方は、あとになってみればかなり辛い想い出となったのではないだろうか。少年期はよいけれど、誰だって青年期など一刻も早く忘れてしまいたい。「たえざる感情の不均衡、鼻持ちならぬ己惚れとその裏返しにすぎぬ大袈裟な自己嫌悪、誇大妄想と無力感、(略)要するに感情のゴミタメ」など、早いところ蓋をしてしまいたい。ところが三島の場合は、忘れたいのに、すべてのシーンが克明で、ひとつひとつが鮮明な映像となって蘇ってしまったのだと思う。これはかなり苦しい。
三島については作品を読むことで、およそはわかる。これまでに刊行された評伝は三島の王朝的な雅の世界を分析するため、どうしても祖母夏子の家系に重点が置かれた。だが作品化された世界をなぞるだけなら、三島特有のパラドックスが視えないのではないか。農民から明治時代特有の立身出世の世界を生きた祖父平岡定太郎について『仮面の告白』のたった一箇所を除けば、三島はみごとに作品から排除したのである。今回、あらためて祖父定太郎、父親平岡梓、そして平岡公威と三大の血統を、官僚という稜線に即して辿ってみて、ようやく全体像に迫れたような気がする。少なくとも、僕にはある了解が得られた。
昭和二十年二月、兵庫県の田舎で入隊検査を受けて不合格になった三島と、付添の父親梓は、兵営の門を踏み出るや否や一目散に駆け出した。もしかしたら「さっきのは間違いだった、取り消しだ、立派な合格お目出度う」と追いかけてくるかもしれない、そう怯えて坂を転がるように駆けたのである。その光景は本文にも記した。いまあらためて三島や梓の写真を眺めているのだが、頭の形を後ろ側から眺めると父子ともらっきょう型なのである。息を切らせた、らっきょう頭が二つ、交互に揺れ動きながら掛けて行く姿はどこか物哀しいばかりでなく、頼りなげであった。ここにもうひとつのらっきょう頭、祖父定次郎 を加えてもよい。存在感として、確固とした何かが欠けているのである。
おそらく近代官僚制は、そうした不在の何かを埋め合わせるシステムなのだ。立身出世の野心に溺れた祖父、屈折した小役人でトリックスターの梓、そして三代目に三島がいる。いずれも官僚を志向するが、結局、官僚機構からの落伍者で終わった。その血脈から一筋の愚直さがこぼれ、殉爛たる文学が開花した。三島が晩年、天皇という存在にこだわったのは、近代官僚制のシステムではない別の確固たるものを求めた結果だろうが、最後にはそれすら信じていなかったのではあるまいか。
三島文学を理解するために日本近代の黎明期を辿ることになった。第一章はそのためにどうしても必要な記述だが、場合によっては第二章から入って第四章まで読了してから、最後に第一章に戻っていただいてもよいのでは、とも思う。
戦後五十年、そして三島由紀夫が四十五歳で自決してから二十五年になる。くしくもそんな節目の今年七月三十一日未明、平岡瑤子さんが亡くなられた。当時三十三歳の夫人は何も知らされておらず、自決のニュースは、乗馬クラブからの帰りのカーラジオで聴くことになったのである。心よりご冥福をお祈りします。
ニューヨーク取材の折、詩人で翻訳家の佐藤紘彰氏(ジェトロのニューヨーク事務所勤務)から『絹と明察』を訳し終えるところだと聞いた。かつてジョン・ネイスンが『絹と明察』から大江健三郎の解しにくい主題が描かれた悲運の著書もようやく英語圏でも陽の目を見そうである。川端康成がノーベル賞を受賞したとき、三島が「つぎは大江だよ」と正確に予言した事実はいまとなってみれば感慨深いものがある。
本書は週刊ポスト誌の95年1月1・6日合併号まで三十八回にわたって連載したものに加筆修正して成った。連載にあたっては岡成憲道編集長をはじめ編集部の飯田昌宏氏に、文藝春秋七〇周年記念・人間発掘シリーズとして単行本に纏めるにあたり文藝春秋第二出版局の上野徹部長、大口敦子氏に、資料収集では町田喜美江氏、山口円氏、唐澤淳氏にお世話になった。また友人の作家伊藤精介氏や『三島由紀夫研究年表』を作成した安藤武氏、三島由紀夫の素敵なガールフレンドだった湯浅あつ子氏、他にも多くの方々から貴重なアドヴァイスを得た。この場を借りて感謝の意を表したい。
一九九五年十月
猪瀬直樹
おそらく近代官僚制は、そうした不在の何かを埋め合わせるシステムなのだ。立身出世の野心に溺れた祖父、屈折した小役人でトリックスターの梓、そして三代目に三島がいる。いずれも官僚を志向するが、結局、官僚機構からの落伍者で終わった。その血脈から一筋の愚直さがこぼれ、殉爛たる文学が開花した。三島が晩年、天皇という存在にこだわったのは、近代官僚制のシステムではない別の確固たるものを求めた結果だろうが、最後にはそれすら信じていなかったのではあるまいか。
三島文学を理解するために日本近代の黎明期を辿ることになった。第一章はそのためにどうしても必要な記述だが、場合によっては第二章から入って第四章まで読了してから、最後に第一章に戻っていただいてもよいのでは、とも思う。
戦後五十年、そして三島由紀夫が四十五歳で自決してから二十五年になる。くしくもそんな節目の今年七月三十一日未明、平岡瑤子さんが亡くなられた。当時三十三歳の夫人は何も知らされておらず、自決のニュースは、乗馬クラブからの帰りのカーラジオで聴くことになったのである。心よりご冥福をお祈りします。
ニューヨーク取材の折、詩人で翻訳家の佐藤紘彰氏(ジェトロのニューヨーク事務所勤務)から『絹と明察』を訳し終えるところだと聞いた。かつてジョン・ネイスンが『絹と明察』から大江健三郎の解しにくい主題が描かれた悲運の著書もようやく英語圏でも陽の目を見そうである。川端康成がノーベル賞を受賞したとき、三島が「つぎは大江だよ」と正確に予言した事実はいまとなってみれば感慨深いものがある。
本書は週刊ポスト誌の95年1月1・6日合併号まで三十八回にわたって連載したものに加筆修正して成った。連載にあたっては岡成憲道編集長をはじめ編集部の飯田昌宏氏に、文藝春秋七〇周年記念・人間発掘シリーズとして単行本に纏めるにあたり文藝春秋第二出版局の上野徹部長、大口敦子氏に、資料収集では町田喜美江氏、山口円氏、唐澤淳氏にお世話になった。また友人の作家伊藤精介氏や『三島由紀夫研究年表』を作成した安藤武氏、三島由紀夫の素敵なガールフレンドだった湯浅あつ子氏、他にも多くの方々から貴重なアドヴァイスを得た。この場を借りて感謝の意を表したい。
一九九五年十月
猪瀬直樹