2013年06月

あとがき

 僕の小学生時代の夏休みは、暑い陽差しに首をうなだれた黄色い大きなひまわりの、原色の激しいイメージを抜きに語れない。
 毎年、小さな庭にひまわりが自生する。種を蒔いたわけではないのに、いつも同じ場所に五本、六本、と生えてくる。近所の悪ガキの家の庭にも、あちこちの家の庭の隅にも、同じようにひまわりが生えたものだ。
 五月、六月と、ひまわりの黄緑色の茎と葉は、すくすくと育っていく。青い空へ向かって伸びていく。下の方の葉っぱを、一枚、一枚、ていねいに引きちぎると茎はさらに伸びる。どこまで伸びるか競争するのである。
 七月、やがて自分の背丈を越えた。こんどはできるだけ大きな花をつけるように剪定するのだ。放っておけば、ひまわりは五つも六つも花をつけてしまう。そうならないように脇から出てくる芽をつむのである。
 そうやって気まぐれに育てて八月―。大きな花が真夏の太陽を燦々と浴びるころ、僕は縁側に老人のようにけだるい軀を横たえ、夏が過ぎるのを、じっと待った。こうしてずっと退屈な午後を生きねばならないという漠然とした不安を、ひまわりは生命力を誇示しながら教えてくれたのだった・・・・・・。

 僕には、僕だけでなく、似たような午後の一刻を記憶している者であれば、三島由紀夫の日常性への呪詛を否定することはむずかしい。だが、やはり彼はどこか違っているのだ。天才であること、それだけでなく、どこかが違っている。
 『仮面の告白』に、祭りの神輿が動きながら近づいて来る場面が描かれている。「そろいの浴衣もあらかた肌をさらしている若衆たちが、神輿自身が酔いしれているような動きで、練に練った。かれらの足はもつれ、かれらの目は地上のものを見ているとも思われなかった」のである。
 こうした憧景は、三島だけのものではない。「神輿の担ぎ手たちの、世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情」から遠ざけられているのは、三島だけではないのである。
 読書する者たちにとっては、つねに〈意識〉が自己を客体化させてしまう。打ち消しても打ち消しても、醒めた認識者を追い払うことはできない。それをふつうのことと三島は考えなかった。僕たちは、しようがないじゃないかといつも間にか納得してしまうが、三島はそれでは生きていけなかったようである。意識化の作用が強すぎて、ある程度ふつうに振る舞うということがなかなかできない。ある程度、という調節ができない。全部が演技になってしまう。ついには演技の側でしか生きていけなくなってしまった、というところだろう。そのジレンマをもまた彼は知っていた。認識の無間地獄のような世界である。
 本文で三島の生い立ちを、できるかぎり新しい事実を示しながら描いたが、醒めるということをいっぱいに強いられた少年を想像してもらいたい。カメラのシャッターを切るように、被写体を冷徹に映し出す装置になってしまったとしたら・・・・・・。
 だから『花ざかりの森』出版の経緯や、敗戦後のやや露骨とも思われる売り込み方は、あとになってみればかなり辛い想い出となったのではないだろうか。少年期はよいけれど、誰だって青年期など一刻も早く忘れてしまいたい。「たえざる感情の不均衡、鼻持ちならぬ己惚れとその裏返しにすぎぬ大袈裟な自己嫌悪、誇大妄想と無力感、(略)要するに感情のゴミタメ」など、早いところ蓋をしてしまいたい。ところが三島の場合は、忘れたいのに、すべてのシーンが克明で、ひとつひとつが鮮明な映像となって蘇ってしまったのだと思う。これはかなり苦しい。
 三島については作品を読むことで、およそはわかる。これまでに刊行された評伝は三島の王朝的な雅の世界を分析するため、どうしても祖母夏子の家系に重点が置かれた。だが作品化された世界をなぞるだけなら、三島特有のパラドックスが視えないのではないか。農民から明治時代特有の立身出世の世界を生きた祖父平岡定太郎について『仮面の告白』のたった一箇所を除けば、三島はみごとに作品から排除したのである。今回、あらためて祖父定太郎、父親平岡梓、そして平岡公威と三大の血統を、官僚という稜線に即して辿ってみて、ようやく全体像に迫れたような気がする。少なくとも、僕にはある了解が得られた。
 昭和二十年二月、兵庫県の田舎で入隊検査を受けて不合格になった三島と、付添の父親梓は、兵営の門を踏み出るや否や一目散に駆け出した。もしかしたら「さっきのは間違いだった、取り消しだ、立派な合格お目出度う」と追いかけてくるかもしれない、そう怯えて坂を転がるように駆けたのである。その光景は本文にも記した。いまあらためて三島や梓の写真を眺めているのだが、頭の形を後ろ側から眺めると父子ともらっきょう型なのである。息を切らせた、らっきょう頭が二つ、交互に揺れ動きながら掛けて行く姿はどこか物哀しいばかりでなく、頼りなげであった。ここにもうひとつのらっきょう頭、祖父定次郎 を加えてもよい。存在感として、確固とした何かが欠けているのである。
 おそらく近代官僚制は、そうした不在の何かを埋め合わせるシステムなのだ。立身出世の野心に溺れた祖父、屈折した小役人でトリックスターの梓、そして三代目に三島がいる。いずれも官僚を志向するが、結局、官僚機構からの落伍者で終わった。その血脈から一筋の愚直さがこぼれ、殉爛たる文学が開花した。三島が晩年、天皇という存在にこだわったのは、近代官僚制のシステムではない別の確固たるものを求めた結果だろうが、最後にはそれすら信じていなかったのではあるまいか。
 三島文学を理解するために日本近代の黎明期を辿ることになった。第一章はそのためにどうしても必要な記述だが、場合によっては第二章から入って第四章まで読了してから、最後に第一章に戻っていただいてもよいのでは、とも思う。

戦後五十年、そして三島由紀夫が四十五歳で自決してから二十五年になる。くしくもそんな節目の今年七月三十一日未明、平岡瑤子さんが亡くなられた。当時三十三歳の夫人は何も知らされておらず、自決のニュースは、乗馬クラブからの帰りのカーラジオで聴くことになったのである。心よりご冥福をお祈りします。
 ニューヨーク取材の折、詩人で翻訳家の佐藤紘彰氏(ジェトロのニューヨーク事務所勤務)から『絹と明察』を訳し終えるところだと聞いた。かつてジョン・ネイスンが『絹と明察』から大江健三郎の解しにくい主題が描かれた悲運の著書もようやく英語圏でも陽の目を見そうである。川端康成がノーベル賞を受賞したとき、三島が「つぎは大江だよ」と正確に予言した事実はいまとなってみれば感慨深いものがある。
 本書は週刊ポスト誌の95年1月1・6日合併号まで三十八回にわたって連載したものに加筆修正して成った。連載にあたっては岡成憲道編集長をはじめ編集部の飯田昌宏氏に、文藝春秋七〇周年記念・人間発掘シリーズとして単行本に纏めるにあたり文藝春秋第二出版局の上野徹部長、大口敦子氏に、資料収集では町田喜美江氏、山口円氏、唐澤淳氏にお世話になった。また友人の作家伊藤精介氏や『三島由紀夫研究年表』を作成した安藤武氏、三島由紀夫の素敵なガールフレンドだった湯浅あつ子氏、他にも多くの方々から貴重なアドヴァイスを得た。この場を借りて感謝の意を表したい。
一九九五年十月
猪瀬直樹 

まえがき

 江戸二百数十年間は、武士の支配する時代と思われてきたけれど、それは表の顔にすぎず、実際に社会を動かしてきたのは商人たちだった。
 特に江戸の中期以降は、商人の流通経済が、武士のコメ経済を圧倒して、次第に武士は指導力を失っていった。
 株式会社というと、明治以降に輸入されたものとされているが、江戸末期に近江商人や浪速商人が、出資者を集めて、大きな資本による商いを成功させて配当金を配っている。これを”組合商人”と称したが、これこそ日本型株式制度のはじまりである。
 さらに、A地の産物をB地で売って、B地の産物をさらにC地へ持っていくといった産物回しを行って、流通経済を盛んにしているが、これは今日の商社と同じ機能をもつ商業のやりかたで、さらに商人は情報の入手に知恵を働かせて、無駄のない商売を心がけた。
 そして”始末、算用、才覚”を商業の原点として努力を重ねたもので、始末というのは吝ではなく、死金を使わないことだと説いている。”商売は牛の涎”ともいって、大儲けして店をやめるのが商人の理想ではなく、子々孫々に至るまで商いをつづけることを理想としたものだった。
 商人の知恵を今日に生かして頂くためにも御愛読を乞う次第である。

一九八六年十二月

邦光史郎 

あとがき

 一九九六年の春頃、関西在住の読者から一通の手紙をもらいました。詳しい内容は言えませんが、老人ホームの内情に関係する、一種の告発文めいたもので、これをテーマに小説を書く準備にかかりました。
 時あたかも、埼玉県の彩グループと厚生省幹部との癒着による疑惑が発覚しました。僕の小説の高層が、まるでリアルタイムに進んでゆくような状況でした。「事実は小説より奇なり」といいますが、善良で高尚なものとして認知されている福祉事業や行政の関係者に、じつは非道の者たちもいたという事実は、たしかに常識を覆す意味で、「奇」にはちがいありません。しかし、類似の汚職事件は過去にいくらでも例があります。今回はそれがたまたま厚生省という、これまであまり汚職に縁がないとされていた世界が舞台だったことが珍奇であるにすぎません。
 この事件が連日のようにマスコミで報道されたおかげで、老人福祉問題やそれにまつわる不正についての知識は、市民のあいだに浸透しました。作品の中であえて詳しく解説する必要がほとんどなくなって、専門的で無味乾燥な記述を読者に押しつける作業を省略できた点は、大いに助かりました。
 この作品のもう一つのテーマは「崇徳上皇伝説」です。崇徳に象徴される、親と子の相剋を描きたいと思いました。親子の「愛」と「憎しみ」は千年の歴史を超えて、人間の永遠のテーマであります。それを崇徳の史実になぞらえ、伝説の彩りを添えて語ろうとしました。したがって舞台は京都と讃岐になり、作品中の施設の名称を「大原荘」と「嵯峨野荘」にしました。京都には百を超える老人福祉関係の施設があります。大原付近にもあるいはそれに類する施設が実在するかもしれませんが、むろん、作品はフィクションであり、現実のものとはまったく関係がないことを明記しておきます。
 じつは、この作品がほとんど完成しつつあった九六年暮の新聞に、思いがけない記事が載りました。坂出市の特別老人ホームを経営する社会福祉法人の理事長が、ホームの建設を受注した建設会社の代表取締役をしていたことが分かった―というのです。
 この「事件」を知っていてこの作品をお読みになった方は、まるでこの小説はこれをモデルに書かれたかのように思われたかもしれません。しかし前述したように、その時点では原稿はほぼ完結しつつありました。そのことは刊行日から逆算すれば納得いただけると思います。それにしてもあまりの不思議な符号には、作者自身、震えがくるほど驚きました。過去にもこういう例はいくどとなくあります。古くは「白鳥殺人事件」、最近では「沃野の伝説」などは刊行直後に現実のほうが追いかけてきました。
 本書ではいくつかの俳句を使いました。左記のようにいずれも実在する作品を拝借したものですが、便宜上、部分的に変更させていただいたものが多いことをお詫びします。

 柿若葉ジーパン干さる深山寺 坂口富士子(会津)

  鞍馬より貴船へ真下木下闇 糸原古志 (島根)

 おむつ縫ふをんなの真顔聖五月 南 昌子(大阪)

 喪の明かり花魁草におよびゐる 四国三郎(徳島)

 石垣の石にまつはる蝶の昼 江成冬子(札幌)

 以上の五句以外はすべて角川春樹氏の句を使わせていただきました。諸氏のご好意にあらためて感謝いたします。
 ところで「伝説シリーズ」は僕の作品群の中のひとつの「山脈」だと思っています。「後鳥羽伝説殺人事件」に始まる「伝説シリーズ」は、どれにも愛着があり、いずれの作品も読者から安定した支持を得ています。
 その理由は、基本的にいって伝説とミステリーは相性がいいためではないでしょうか。伝説そのものがミステリーなのだから当然といえば当然ですが、とかく索漠としがちな「探偵小説」に、伝説は優しさとロマンを加味してくれるような気がします。ことに日本の伝説には美しさと悲しさがあり、しっとりとした情感さえ漂わせています。
 僕自身、歴史や伝説に触れることが大好きです。「伝説シリーズ」と銘打ってミステリーを書くときはじつに楽しい。これから先、いくつの伝説にアタックできるか分かりませんが、「伝説シリーズ」の山脈が果てしなくつづくことは間違いなさそうです。

一九九七年一月

内田康夫 

あとがきにかえて 池波豊子(池波正太郎夫人)談話

 池波の時代小説やエッセイを読んだ方は、主人が人生やさまざまなモノにこだわっていたような印象を持たれているようですが、結婚した昭和二十五(一九五〇)年頃は、食べていくことが精一杯の時代でしたので、モノにこだわるどころの生活ではありませんでした。
 しかし、生活に余裕ができてくると、ブランドにこだわるというわけではありませんが、気に入ったものを大切に使っていました。例えば帽子が大好きで、鳥打帽やソフト帽などたくさん持っていて、新国劇の指導などに出かける時には必ずかぶっていました。帽子のおかげで刑事に間違えられたこともあったようです。また痛風を患ってからは、ステッキを使うようになりましたが、山の上ホテルの社長からいただいた、傘にもなるステッキが気に入ってよく使っていました。帽子をかぶり、ステッキを片手にぶらりと家を出て、地下鉄に乗って、新橋や銀座などへ映画の試写会を観によく出かけていたものです。
 最もこだわりを持っていたのは、食べ物かもしれません。家での食事は、品数が多いと機嫌が良く、一品に力を入れて作り、あとは入り卵や香の物など四、五品並べると満足していました。主人は三年連続して使える日記をつけておりましたが、書いてあることはその日のメニューが中心。何を食べたかということが記してあり、おいしいと二重丸がついているのですが、まずかった時はペケがついていて、「今日のは猫のメシだ」などとコメントが書いてありました。
 好物は肉類で、カツ丼などはとても喜んでいました。高価な素材や珍しいものよりも、味を重視していました。小説にも登場する料理、例えば「必殺仕掛人」シリーズにも出てくる”小鍋だて”(小鍋にダシをとり、千切りより太めに切った大根、あさり、小柱、みつばなどを入れた少人数用の鍋料理)やとろろ御飯などもよく食べていました。私がその日のメニューに困っていると日記帳を出してきて、「昨年の今日はこんな物を食べていたよ」と教えてくれるので助かったものです。
「女は、毎日気分が変るから味も変る」と言っておりまして、自分でもよく料理していました。ただ、材料をそろえるのはこちらの仕事。ですから、例えば私が炒め御飯の具を小さく刻んで用意すると、それから池波が登場しまして、フライパンを火にかけ、炒めて味付けをするのです。それをいただきながら、「うまいだろう」と言うのですが、やはり味付けはいまひとつだったように思います。
 しかし、人一倍好奇心は旺盛でした。ヨーロッパに取材旅行などでよく出かけましたが、同行した通訳の方が大変だったと思います。というのも、メニューを全部訳してもらわないと気が済まないのですから。ただ食べたい物をちゃんとオーダーできたおかげで、珍しくておいしい物をたくさんいただくことができたと思います。
 主人は、おおらかな人柄と雰囲気が好きで、フランスの田舎によく行きましたが、心地よいバーを見つけ、カウンターに腰掛けて雰囲気を楽しんでいました。たまたまとても気に入ったバーがあり、その後行ってみたらもう無くなっていまして、とても淋しそうでした。しかしヨーロッパに行くようになってから絵を描き始めたのも、何かひかれるものがあったからだと思います。あちらで写真を撮って、戻ってから書斎に籠って写真を見ながら色をつけていましたが、動物や人物の絵が多く、花などはあまり興味がなかったようです。
 木製のフレームの眼鏡は、七、八年前に「鬼平犯科帳」のファンの方がわざわざフランスから送ってくれたものです。その方は三十年以上もフランスに住んでいる方なのですが、かなり探し回って下さったのではないでしょうか。その後もあまり他の方がこの木製のフレームを使っているところを見たことがありません。主人と私にペアで送って下さったのですが、軽くてズリ落ちないし、とても洒落たデザインなので主人も大変気に入って、外出する時も使っていました。しかしやはりちょっと気障だと思ったのでしょうか、そのうち外では使わなくなりましたが、家ではこればかり愛用していました。ですから「鬼平犯科帳」や「剣客商売」の後半は、この眼鏡を通して創作されたものなのでしょう。私はかける勇気がありませんでしたので、大切にしまってありますが・・・。
 主人の仕事のことは、あまりよくわからないのですが、いつも言われてきたことがあります。それは、「職人のおかみさんだということを、いつも念頭において行動するように」ということです。つまり池波は、期限を守ってモノを作る職人で、私はその職人のおかみさんとしての立場を忘れてはいけない、ということでしょうか。とにかく庶民としての生活を心から愛し、大切にする。池波は、そんな人でした。 

序文

 この短編集は、日本推理作家協会が編集した、一九九〇~九一年版の年鑑を母体として、短編ミステリーを十一篇、選んで出版するものである。
 話は飛躍するが、ミステリーは棒高跳びに似ている、というのが私の持論である。私自身、棒高跳びをやったことはないけれど、テレビなどで見ていると、この競技にはたくさんの条件が課せられている。どんな助走がよいのか、踏み切りのポイントはどのあたりか、棒の角度、足の蹴り方、体の伸ばし方、縮め方、腰のひねり、棒から手を離すタイミング、すべてを巧くクリアーしないと、首尾よくバーを越えることができない。一つでも失敗すると取り返しがきかない。五メートル五十を越える記録を持つ人が五メートルそこそこで失格することも稀ではない。察するに、大部分の条件を平均点以上の出来でクリアーし、一つ二つ、すばらしい技があったときに秀逸な結果が生れるのだろう。
 ミステリー小説も、動機、殺害方法、トリック、謎解き、性格描写など、いくつものバーをクリアーしなければいけない。一つでも失敗すると致命傷となる。作品が成立しなくなる。大家と呼ばれる作家でも、作りそこなってしまう。
 この点、対極にある私小説などとは事情が著しく異なっている。私小説にも出来不出来はあろうけれど、大家と呼ばれる人が、素人にもわかるような致命的な欠点を露呈することはありえない。ミステリーでは、
「こんなアリバイ、成立しないよなあ」
 この一言で、他の部分がどんなに巧みに作られていても駄目なのである。棒高跳び同様、失敗は無惨であり、だれの目にもわかる。
 この短篇集に掲げられた十一の作品は、ミステリーに必要な諸条件を、少なくとも平均点以上の出来でクリアーし、しかも一つか二つ秀れた技を示しているものである。鮮やかなジャンプをご賞味いただきたい。

日本推理作家協会理事長 阿刀田 高 

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