解説 河合香織

「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」というトルストイの有名な言葉がある。そもそも幸せと不幸の境界はどこにあるのだろうか。

 物語の主人公は、三十九歳の作家である青田耕平。デビュー作が控えめにヒットし、つぎに「くる」作家だと言われ続けながら、その後十年間で出した十三冊の小説はすべて初版のまま終わるという境遇に置かれている。
 不運は、私生活にも及ぶ。三年前に事故で妻を亡くし、小学四年生になる息子のカケルと二人暮らし。カケルは父親のことを「チッチ」、母親のことを「ママッチ」と呼んでいて、今でも「ママッチ」が死んだことを完全には受け入れられないでいる。その孤独は青田も同じだった。
 空白の心を埋めるかのように、青田ははじめて妻と子を題材にした私小説的な作品『空っぽの椅子』を書き上げる。それが「直本賞」という権威ある賞の候補に選ばれ、銀座の文壇クラブの女性、書店員や小学校の教師など新たな女性たちとの恋にも目を向けるようになる。そんな「チッチ」を、カケルは時に子どもらしく無邪気に、時に大人顔負けの良識を見せながら支えていく―。

 ストーリーの骨格は文学賞を獲るまでの道のりだが、本書で重要なのは、毛細血管のようにすみずみまで張り巡らされている、ありふれた日常の丁寧な描写である。
 たとえば、原稿を書き上げた翌朝、青田があたためた豚汁をカケルが飲むところ。学校でいじめられた友達を庇った後に見せたカケルの表情。入梅前の夜、青田が書店員の女性と神楽坂を歩いている時にまとわりつく熱気。
 彼らが日常の営みを丁寧に生きていくことを積み重ねている様が、過剰に思えるほどの軽妙な明るさを持って描かれる。カケルは聞き分けがいい子どもであり、「チッチ」は飄々としている。
 一方、妻が生前残した手紙をきっかけに、その死は本当に事故だったのか判然としなくなり、ひょっとすると自殺ではなかったかという疑いが深まっていく。それがわかるあたりから、父と子の明るさの背景には、とてつもなく深くて重い闇が横たわっていることが見え隠れするようになる。悲しみは重さではなく、軽さとなって表現される。
 青田は妻を亡くしたとき、その衝撃を「重い」のではなく、あまりに「軽い」と感じたという。(魂の半分、内臓の半分、血液と筋肉の半分がいきなりもぎとられ、自分の体重が半減したようにふわふわと軽く感じられる)。
 身体的な感覚の軽さが、心の軽さにつながる。それは、あまりに深刻な出来事に直面したくない、信じたくないという心の発露であろう。本当に悲しい時には、身体にも心にも重量や湿度を持つことを人はできないという作家のリアリティから、あえて息苦しいまでに乾いた軽い言葉が選ばれていることがわかる。余計な修辞や比喩は極力控えられ、さくさくとした歯ざわりの筆運びは、登場人物の生死を巡る葛藤の場面においても変わらない。
 明るい父子は、軽さの中でしか生きることができないほどの深い虚無の十字架を背負っているのだ。

 十字架は一つだけではない。チッチの作家としての「業」という、もう一つの十字架が浮かび上がっていく。本書に繰り返し描かれているのは、書くこと、書き続けていくことに対する葛藤である。1冊の本であれば書ける人は少なくないだろう。だが、職業作家として何十年も書き続けることは容易ではない。青田は心情を吐露する。

〈書き始めたころの新鮮な気もちは失われてしまった。ときどき自分が空っぽになってしまったように感じることもある。この世界という巨大なノートに十年間も落書きをしてきた。どの言葉も簡単に消しゴムで消せて、傷ひとつページに残せなかった気がする〉

 これほどのリアリティを持った言葉があるだろうか。青田は妻の死だけでなく、作家としての徒労感も募らせている。落ち込んだ父は息子に小説を書き続けられないと訴える。〈たのしいこともあるけど、つらくて苦しいことのほうが多いかな〉 。

 フィクションとして小説を積み上げてもなお、作家は知っていることしか書くことができない。それは宇宙人を描こうと、妖怪を描こうと、そこに表される本質はやはり作家が知っていることなのだ。だから、書き続けていくうちに、内にある材料がどんどん減っていって、自分が損なわれていく。
 その空虚を埋めるため、青田は禁断のテーマ、虚無の根源である妻の死を描いた『空っぽの椅子』の筆を執った。空っぽなのは、妻がいない空間だけではなく、触れるのもはばかられるほどに作品を書く度に失われていく作家の埋めようもない心も表している。

「チッチは、僕だ」と作者は言う。
 確かに、作者もまた直本賞ならぬ直木賞を受賞していることなど共通点は少なくない。とはいえ、この言葉はそういう外形的なもののみを指すのではない。青田が抱えようとも、いや、だからこそ、作家というのは書き続けることをやめることはない。実際に手を動かして書くことだけが問題を乗り越えられる手立てだからだ。
「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、堪えられる」
これはデンマークの小説家イサク・ディネセンの「アフリカの日々」にある言葉だが、創作もまた悲しみを乗り越える手段のひとつなのだろう。

〈誰にでもわかるような簡単な問題でも、作家はうんと遠まわりをして、何ヶ月もときには何年もかけて書きながら考える。書くことはこたえをだすことではなく、自分なりの方法で漏れなく考えつくす手段だった〉。そして、書けない葛藤さえも、作家は小説に変えていく力を持つ。

 それにしても、このような闇を生きてもなお、なぜチッチと子は幸せに見えるように暮らすことができるのか。
 もう一つ、思い出す言葉がある。〈芸術家はみんな、自分には何ができて、何ができないかを、幸福から告知されている。なぜなら、幸福とはアリストテレスの言うように、力のしるしであるから。ところで、この規則はすべての人に当てはまるものと、ぼくは信じている〉(アラン『幸福論』)
 幸福になれるかなれないかは、受け止める人間の能力の問題だ。どん底でも幸せだと感じられる人もいれば、恵まれた環境にあっても不幸せだと思う人もいる。自分にできることを確信をもって行うこと、それが創作者にとっても、創作者を享受する人にとっても、幸福への道だ。大切な人が死んだとしても、残された者の日常生活は続いている。生きていることの喜びをかみしめながら日々を暮らすことで得られる、ささやかな幸せは、作家にとってどんな文学賞よりも尊い。
 主人公は作家として自分にできること、できないことを模索しながら、幸福をつかもうとしている。それは作家としての能力が試されているだけでなく、人として「幸福になる」能力をも試されている。その過程で喪失と正面から向き合うことで、はじめて心の空虚を埋めることができる。
 幸福とはなにかを、読者一人一人に深く考えさせるエンターテインメント作品に仕上げた作者の力量に感歎した。そして思う。石田衣良さんは幸福になることで、自分にできることとできないことを知っている人なのだろうと。

(平成二十四年十一月、ノンフィクション作家)