解説 中村うさぎ

2012年1月、「婚活詐欺事件」と呼ばれた一連の事件の公判が始まった。

この事件が世間の注目を集めた理由は、結婚を餌に男たちから金を巻き上げた末に殺したと言われる

容疑者の木嶋佳苗が太っていて醜かったためである。 

「あんなブスでデブに何故、複数の男たちが金を貢いだのか?」

事件に対する世間の関心は、まさにこの一点に集中したと言っても過言ではなかろう。

男たちを騙して金を巻き上げるのは美人の特権である……みんながみんな、そう思っていたからだ。 

木嶋佳苗が殺人犯であるか否かは、私にはわからない。

ただ、彼女が何人もの男たちから金を巻き上げていたことは事実であり、私にはそれが彼女の

「男への復讐」のように思えて仕方ないのである。

女がブスに生まれるということは、男たちには想像もつかないほどの不幸だと私は思う。

何故なら、女は幼少の頃から逃れられない美醜のヒエラルキーの中に置かれて育つからだ。

小学生の男子は残酷で、驚くほど酷いあだ名を女子につける。

思春期になればさすがに酷いあだ名で呼ぶことはしなくなるが、その代わり、

美人とブスに対する態度の違いでそれを見せつける。

存在するだけで目障りな存在、いてもいなくてもいい存在、心ない揶揄や嘲笑の的となる存在……

そんなふうに扱われ続けた女子が苦しまないはずはないし、心がねじけてしまうのも当然ではないか。

木嶋佳苗が世の男たちに対して鬱屈した怒りを胸に溜め込んでいたとしても、

ちっとも不思議ではないのである。

そして、ある時、彼女が犯罪という形で男たちに復讐しようとしたとしても。


さて、この作品のヒロインは「バケモン」と呼ばれたほどのブスであった。

おそらく木嶋佳苗などより遥かに醜かったのであろう。

男たちに忌み嫌われ、女たちに嘲笑され、行き場のない怒りが彼女の胸に積もっていく。

思春期の少女らしい恋もするが、失恋という言葉では表現できないくらい残酷な結末が待っている。

ただ醜く生まれただけで、彼女は地獄のような日々を送るのだ。

そして、ついに彼女はある事件を起こし、石もて追われるような形で故郷を出る。

だが、上京した彼女は風俗で働きながら美容整形に金をつぎ込み、

見違えるような美女に変身して、故郷の町に帰ってくるのである。

復讐のために?

それとも、満たされなかった想いを遂げるために?

いや、おそらく、その両方のために。

ヒロインが美容整形を繰り返して変身していくくだりは、読んでいてワクワクする。

私自身が何度も美容整形をしているため(たぶん、それが理由で私に解説の依頼があったのだと思うが)、

著者の知識と理解の深さに感銘を受けた。

生半可な知識で書くと、美容整形ネタは荒唐無稽で非現実的な話になってしまう。

美容整形は、魔法ではない。

バケモンとまで言われたブスが絶世の美女になるには、それ相当の大掛かりな手術が何度も必要で、

一朝一夕に華麗なる変身が遂げられるものでは決してないのだ。

チープな設定の漫画や小説だと、このあたりがかなり杜撰で、読んでいて興ざめしてしまうことが多々ある。

その点、この作品は、ヒロインが最初に二重まぶたの整形をし、そこから時間をかけて

だんだん大規模な手術に移っていく過程が、とてもリアルに描かれている。

そして、ヒロインはついに美貌を手に入れる。

喉から手が出るほど欲しかった男たちからの賞賛、女たちからの羨望を、彼女は一身に浴びるのだ。

美しくなることは、快感である。

男の出世物語のように、ヒロインのヒエラルキーがどんどん上がり、周囲の扱いが変わっていく様子も、

読み応えのある描写になっている。

そう、これは女の出世物語なのだ。

最下層にいた人間が頂点に登りつめる物語。だから、読者はここで大いにカタルシスが味わえる。


しかしまぁ、美女となったヒロインに対する男たちの態度は、なんと滑稽に描かれていることだろう。

かつてヒロインを傷つけた男は、犬のように舌を出しながら、欲望を丸出しにして近づいてくる。

そして、ヒロインに腹を蹴られてキャンキャンと鳴いて退散するのだ。

ははは、ざまぁみろ。

人間というのはさもしい生き物だ。外見よりも中身が大事、などと真顔で綺麗事を言う者ほど、

美貌という餌を前にすると恥も外聞もなく食らいついてくる。

私事で恐縮だが、昔から自他ともに認める面食いである私は、それを公言すると必ず

「男を外見でしか判断しない軽薄で愚かな女」という批判や軽蔑を浴びたものだ。

だが、本当に中身だけで相手を選んでいる人に、私はほとんど会ったことがない。

たとえイケメンじゃなくても、たとえば知的な容貌であるとか誠実そうな面立ちであるとか、

みんな多かれ少なかれ、外見の印象で判断しているのである。

そのくせ、誠実そな外見の男がじつは誠実でなかったりすると、裏切られたとばかりに嘆く。

外見と中身なんて全然別物なのに。顔で判断してるのはどっちだよ、と笑ってやりたくなる。

だが、それでも男であれば、容貌以外の魅力で女を惹きつけることは可能だろう。

が、女はそうはいかない。若さと美貌は、何にもまさる武器となるのだ。

富も知性も経験も若さと美貌にはかなわない。賢いブスよりも愚かな美人が確実に選ばれる。

この残酷な現実に憤慨したところで、何の意味もないのはわかっている。

女を容姿で選ぶ男たちを糾弾する者もいるが、そもそも他人の欲望に口を出すこと自体、野暮ってもんだ。

異性の好みなんて、本人の自由ではないか。

だから女たちは、より美しくあろうと努力する。化粧をし、髪を巻き、競い合う花のように華やかに着飾る。

ダイエットをし、エステに通い、肌の手入れも欠かさない。それでも満足できない者は、

美容整形クリニックに行って金で「美貌」を買う。

それは少し前までは禁じ手とされていたが、プチ整形を含めれば今やかなりの女たちが

気軽に施術を受けている。

美しさを求めて何が悪い、どうせ女は容姿でしょ、と開き直って。

だが我々は、そうやって必死になって美しさを手に入れて、それからどうしたいと言うのだろう?

この作品のヒロインのように明確な目標や胸にくすぶり続ける夢があるなら、まだ意味がある。

しかし、たいていの場合は、そこから先に何のビジョンもないのである。

ただ今より綺麗になりたいという、その欲望だけが目的化しているのだ。

そう、それはゴールのないゲームを延々と続けているようなもの。美という幻の蝶を追って、

どこにも行き着かない道をぐるぐると歩き続けているようなものだ。

どこかで諦められればいいのだが、美容整形という奇跡は、我々から「諦める」という選択肢を

奪ってしまった。何しろ金さえ出せば、いつまでも老いと戦うことが可能なのだ。

永遠に若く美しく、時間の止まった城で百年眠る姫君のように、50歳になっても60歳になっても

美醜のヒエラルキーから降りることができず、終わらない舞踏会で踊り続ける。

それはもはや、「美」という名の牢獄のようなものである。

我々のその虚しさに比べれば、このヒロインのなんと羨ましいことだろう。

たったひとつの恋のために生きることができたのだから。

己の獲得した美貌を夢にまで見た王子様に捧げて、燃え尽きることができたのだから。

なるほど、彼女を見れば、我々の諦めきれない欲望の地獄の正体がわかる気がする。

彼女と我々の違いは、「ひとりの男をゴールにできるか」なのである。

思春期に恋い焦がれた憧れの君だって、付き合ってみればただの男に過ぎないことを

我々は知っている。ある程度の年齢になれば、もはや男に対して、思春期のような過剰な幻想を

抱けなくなるのだ。我々は、王子様を永遠に失ったまま、鏡に己の若さと美貌を映しながら

百年生きる古城の妖怪なのである。

そう、我々こそが真の「モンスター」なのだ。